更新日:2022年3月11日

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播磨国風土記

「風土記」の成立と流布

令規定の郡・里となっており、霊亀ニ年[七一五]の郡郷里制への移行前に成立したようにみえる。したがって編集者は官命のあった和銅六年[七一三]から霊亀ニ年の国司が候補となる。国守の巨勢邑治(こせのおおち)・大石王・石川君子が編纂のトップで、実務は和銅五年七月に播磨大目だった楽浪(ささなみ)[高丘]河内かと推測される。しかし郡里制の記載があるからといってもそれが成立時点を意味するとはかぎらず、また郡郷里制への転換を霊亀三年とみる説もあり、成立年代と編集者は定説をえていない。

 さて、『播磨国風土記』の原本ははるか昔に失われ、現存するのは三条西家に伝来した古写本である。平安中期ごろのものかといわれ、現在は国宝で天理大学附属天理図書館が所蔵する。

 流布については、たとえば『常陸国風土記』は加賀前田家本がもとで、水戸彰考館が借覧・筆写して巷間に行きわたった。これに対して『播磨国風土記』は、いわゆる完本五風土記のなかでもっとも流布がおくれた。はやくは元禄十六年[一七〇三]に前田綱紀が三条西家本を見たというが、これを筆写したのは寛政八年[一七九六]の柳原紀光、嘉永五年[一八五二]の谷善臣であった。これではじめて世に紹介され、文久三年[一八六三]に初稿ができた栗田寛の『標注古風土記』[明治三十二年刊]と明治二十年刊行の敷田年治著『標注播磨国風土記』で一般に流布した。

 

風土記と古代史文献

和銅六年(七一三)五月、政府は、地名にふさわしい文字をあてさせるとともに、国内の特産物や地名の由来・地味また古老たちの伝えるさまざまないいつたえなどを諸国が記録して上申するよう命じた。この上申書は、のちに『風土記』とよばれた。

 

古代の日本のすがたを描く材料にはいろいろあり、国家の来歴を記したものや貴族・官人たちの執務上の関心事から編纂されたものも参考になり、木簡や古文書もたいせつである。しかし当時の為政者たちの政治思想にも影響され、民衆の生活ぶりや生の声を伝えることが少ない。そこで『万葉集』や『日本霊異記』などにみられる人々の記述がたいせつになるが、『風土記』からは、恋愛・怨恨・争奪など人々のたくましい生活ぶりや願望を数多く読みとることができる。

播磨の神々の足跡

埴岡の里(神河町)

埴岡(はにをか)の里。埴岡と号(なづ)くる所以は、昔、大汝の命と小比古尼(すくなひこね)の命と、相争ひて云(の)りたまひしく、「埴の荷を担(にな)ひて遠く行くと、屎下(くそま)らずして遠く行くと、この二つの事、何(いづ)れか能(よ)く為(せ)む」とのりたまひき。・・・・かく相争ひて行きたまひき。数日を逕(へ)て、大汝の命云りたまひしく、「我は忍び行きあへず」とのりたまふすなはち坐して屎下りたまひき。尓時(そのとき)、小比古尼の命咲(わら)ひて曰(の)りたまひしく、「然(しか)り。苦し」とのりたまひて、亦(また)その埴をこの岡に擲ちたまひき。故れ、埴岡と号く。(神前郡埴岡里)

 

 父の神の船、振興す能(あた)はずて、ついに打ち破らえき。所以に、其処(そこ)を船丘お号け、波丘と号く。琴落ちし処は、すなはち琴神丘と号け、箱落ちし処は、すなはち箱丘と号け、梳匣(くしげ)落ちし処は、すなはち匣(くしげ)丘と号け、箕(み)落ちし処は、すなはち箕形丘と号け、甕(みか)落ちし処は、すなはち甕丘と号け、稲落ちし処は、すなはち稲牟礼(いなむれ)の丘と号け、冑(かぶと)落ちし処は、すなはち冑丘と号け、沈石(いかり)落ちし処は、すなはち沈石丘と号け、綱落ちし処は、すなはち藤丘と号け、鹿落ちし処は、すなはち鹿丘と号け、犬落ちし処は、すなはち犬丘と号け、蚕子(ひめこ)落ちし処は、すなはち日女道(ひめぢ)丘と号く。(餝摩郡伊和里)

 

 姫路市中心部にあった十四丘の由来を説明している。子神の火明(ほあかり)命が粗暴なので、大汝命は置き去りにして船出しようとした。それに気づいた子神は風波をおこし、船を破壊した。このとき船の積載物などが落ち、その落ちたものが丘の名の由来になったという。霧や霞にかすむなかに浮かんで見える丘を俯瞰して、ちりばめられた地名から神々の争いの一幕を連想したのだろうか。十四丘の一つである日女道(ひめぢ)丘(姫山)の神は、大汝少日子根(おおなむちすくなひこね)命の求愛をうけ、筥(はこ)丘に食物などを供えたという。ここは神々の集い憩う楽園であった。

古代びとの地域交流

 『播磨国風土記』からは、幾内と周縁部では近江・大和・摂津・河内・和泉・紀伊との、山陰では丹波・但馬・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見との交流、また西隣の吉備との交渉もみられる。こうした諸国との行き来は、考古学的な調査でも裏付けられている。
 幾内周辺の摂津・河内でよくみられる簾(すだれ)のような文様がほどこされ、粘土に雲母(うんも)が入っている土器がある。これと同様なものが、播磨でもみつかっている。

 

大雀(おほさざき)の天皇の御世に、人を遣りて、意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の五の国の造等を喚(め)したまひき。是の時に、五の国の造、すなはち召しの使もて水手(かこ)と為て、京に向かひき。これをもちて罪と為したまひ、すなはち播磨の国に退ひて、田を作らしめたまふ。(餝摩郡餝摩御宅)

 

 冑岡は、伊与都比古(いよつひこ)の神と宇知賀久牟豊富(うちかくむとよほ)の命と、相闘ひし時に、冑、この岡に堕ちき。故れ、冑岡と曰ふ。(神前郡冑岡)

 

 

 

 

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